鹿児島大学水産学部 練習船の歴史

鹿児島大学水産学部五十周年記念誌より

新潮丸(昭和23年~昭和29年)

敬天丸の沿革
昭和23年、旧日本海軍の駆潜艇(対潜水艦作戦艇)2隻が舞鶴港に繋留されていることを聞きおよんだ山本清内校長は、大蔵省財務局に赴き、局長と折衝の末、一隻は「新潮丸」(総トン数105トン)として鹿児島水産専門学校へ、他の一隻は、「北星丸」として、函館高等水産学校へ配属されることになった。
敬天丸(総トン数265トン、船体延長して308トンになる)は、新潮丸の代船で、マグロ延縄漁業の装備を持った漁業実習船として、昭和29年に竣工した。学生定員20名のこの船は、主に専攻科学生の教育に従事した。当時の専攻科は、長崎大学や広島大学の卒業生も受け入れていたので、30余名の学生が在籍しており、敬天丸に収容できない学生は、かごしま丸に乗船したり、大手水産会社へ実習生として派遣されたものであった。
乗船実習中の事故を未然に防ぐために、乗船実習は大学の練習船で行うことにしたため、学生収容定員を増やす必要があったことと船尾式トロールなど新しい漁撈装置を装備すること、海洋観測機器を充実すること、および500トン以上の船は救命艇の搭載が義務付けられたこと、などの事柄があいまって、昭和49年に全通遮浪甲板・船尾式トロール型船「敬天丸二世」(総トン数860トン)が竣工した。

敬天丸一世(昭和29年~昭和49年)
敬天丸二世(昭和49年~平成15年)



鹿児島大学水産学部五十周年記念誌より

隼人丸(昭和24年~昭和31年)

本学の草創期のころ奄美群島は、連合国軍の統治下にあった。その奄美から黒砂糖を密輸して逮捕された漁船「金平丸」が財務局の管理下にあった。その船を水産学部が譲り受け、改造予算を得て、生まれ変わったのが「隼人丸」(11トン:木造船)である。水産学部に進学して、最初に乗るのがその「隼人丸」であった。串木野港や阿久根港を基地として、イワシ刺し網実習を行った。その後、沿岸漁業実習は「しろやま」(18トン:木造船)、「南星丸一世」(45トン:木造船)、「南星丸二世」(83トン:鋼船)に受け継がれた。


しろやま(昭和32年~昭和42年)
南星丸一世(昭和42年~昭和51年)
南星丸二世(昭和51年~平成14年)



鹿児島大学水産学部五十周年記念誌より

かごしま丸二世(昭和35年~昭和56年)

昭和35年(1960年)に「かごしま丸二世」が竣工した。当時は船尾式トロールへの転換期でもあったが、あえてサイドトロール型が選ばれた。その理由は「船尾にランプウェイを持つ船型は安全を期しがたい」と言うことであった。この船は、漁撈設備および海洋調査設備の整った本格的漁業実習船であり、教育設備も整った乗り心地の良い船であった。


かごしま丸一世(昭和25年~昭和35年)

下関港に旧日本国陸軍の暁部隊(船舶工兵隊と聞いている)の練習艦「暁辰丸」が繋留されていた。この船は、揚子江の砲艦(英国海軍)として九竜ドックで建造中に旧日本軍に接収され、陸軍工兵隊が造りあげたもので、当時は、連合国軍英国司令部が管轄していた。山内清内初代学部長は、英国司令長官に直接談判し、格安に譲り受け、文部省から多額の改装予算を獲得して、6トン型魚艇2隻を搭載した母船式漁業実習船に模様替えしたのが「かごしま丸一世」(総トン数628)トンである。

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